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献身した者の道

主が関心を持っておられるのは私たちの外側ではなく内側です。

賜物ではありません、性質です。


主に献身していくとき、直面する問題があります。

それが「私の内側」です。

主は十分に時間をかけて、私たちの性質を変えられ聖められます。


私たちは献身を主の前で表明した時には、自分の高慢には気づいていません。

献身した者がまず初めに学ばなければならないことは、自分が聖められる必要があるということです。その自覚です。


聖霊様が取り扱おうとされているのは、私の罪ではありません。私の自我です。

自我が生き生きしていることが神の国においては邪魔なのです。非常に厄介者です。


聖霊様は私の同意なしで働くことはなさいません。非常に紳士的です。

自我の砕きは、私が同意してから始まります。


主に献身した者が経験することがいくつかあります。

その中の一つは、いったん祭壇の上に身をおいたのは良いのですが、途中で祭壇から降りたくなることです。逃げ出したくなることがあります。


献身の道を歩み続けると、簡単な道ではないことに気付きます。

時に、傷つくことも経験し、心を刺し通されるようなことも経験します。

この時点で、ある人々は、祈りを持って主に仕えること、へりくだって主に仕えることの代価は大きすぎると判断してしまいます。


だからこそ、心をまず初めに取り扱っていただかなければなりません。

それが私の内側にある性質です。


献身者とは教職者だけではありません。肩書きではありません。

キリストのために生きたいと思うすべての人が献身者です。

身を捧げた者はもう自分のものではありません。奪い返してはなりません。


主は必ず報いてくださいます。

主は良いお方であることを忘れないでください。


この人生というレースを走り抜きましょう。

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