キリスト者の葛藤は、あるべき姿は知っていて、原理も理解はしているが、
実際に「できない」ことなのではないか。
「絶えず祈りなさい」
このことばはそのまま受け入れるに値することばである。
しかし実行不可能であると感じると、肉的な解釈で納得しようとする。
祈りとは何か?
これは大事な質問である。
根底に握っていなければならないことは、祈りとはコミュニケーションであるということ。
イエス様の祈りは御父との交わりであった。
祈りは修行ではなく、交わり。
いのちの水の泉である主との関係。
三位一体の神、ここに交わりがある。
ただ問題解決の有効手段と理解しているなら、祈りの楽しさを理解できない。
祈りの恵みを感じることもできないだろう。
祈りは主との関係を建てあげる。
愛し合う夫婦であっても、会話がなければ互いに理解しあうことはできない。
「あなたをもっと知りたい」この思いが祈りへと変わる。
隔てのない主との親密な交わりは、本来、キリスト者の喜びである。
「愛する人と一緒にいたい」という思いは自然である。
「愛する人と一緒にいなければならない」という規則ではない。
これはもはや愛している人の姿ではない。
祈りの核心は「行い」ではなく「心」にある。
「行い」を変えるのではなく、「心」を主に変えてもらう必要がある。
主よ、私の心に触れてください。
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